2010年3月末をもって、琉球放送を退社致しました。
現在の活動はこちらのブログでご覧に慣れます
http://makikokobayashi.ti-da.net/
今後とも宜しくお願い致します。
2010年03月19日
蒸し風呂☆

久しぶりの1時間番組丸々サイズだったのでちょっとぐったりです\(^^:;)
ちょっとプリンで一休みして、この後はニュース。
あとひとふんばりですo(^-^)o

血液が頭部にも巡りまくりで
知恵熱みたいのが出てぼーっとしちゃうわ
蒸し風呂状態で汗だくになるわで( ̄▽ ̄;)
スゴイことになりました。
文字を音声化するって、やっぱり体力必須!
と改めて思うのです。
思い出深い作品になりそう☆ 28日だったかな?
踏ん張ったのでよかったらぜひご覧下さい!
放送終了後、キャストの皆さんと

Posted by 小林真樹子 at 17:50│Comments(10)
│イロイロ
この記事へのコメント
もしかしてクーラー無しですか。
Posted by ta-isa
at 2010年03月19日 18:24

頑張れまきちゃん〜今福島にいるよん
Posted by 静岡のサイトウツヨシ at 2010年03月19日 18:49
ニュース観ました。気のせいかもしれませんが真樹子さん少し焼けましたか?
Posted by mitsu at 2010年03月19日 19:00
一時間しゃべりまくると
やはり疲れるんですね。(>_<)
視線の先が気になります。
何を見てるのかな?
やはり疲れるんですね。(>_<)
視線の先が気になります。
何を見てるのかな?
Posted by 33-kacky at 2010年03月19日 19:33
お仕事を真剣にやってる、マジ顔真樹ちゃんも素敵ですなぁ(〃∇〃)
でも!やっぱり真樹ちゃんは、笑顔の方が1番可愛いけどね☆(´∀`人)☆
でも!やっぱり真樹ちゃんは、笑顔の方が1番可愛いけどね☆(´∀`人)☆
Posted by タカ at 2010年03月19日 20:32
お・・おれはもう
ダメだ・・・
ぬぶはぁ~~~~~~~~
ダメだ・・・
ぬぶはぁ~~~~~~~~
Posted by なんぶ~なう at 2010年03月19日 21:45
お疲れさまでした。明日のどよタマも応援してます。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
Posted by かっちゃん at 2010年03月20日 00:45
28日仕事だぁーっ
その番組って何時からなんだろ?夜だといいな
昼間なら録画して見ま~す



Posted by トラバラ at 2010年03月20日 02:07
留学が御退職の契機でらしたのですか~。
留学で新たに学ぶことも良いのでしょうが、どうか我が国の伝統の良さを伝えることで世界を良くしようというような覚悟で臨まれますならば、フラフラしてツマラナイ連中に捕まることも無いと老婆心ながら思われます。
よって、下記メルマガなど宜しければ大いに活用されること、お勧め申し上げます。
海外在住邦人の方による購読が非常に盛んであるように伺っておりますので、御紹介まで。
■ Japan On the Globe(640) ■ 国際派日本人養成講座 ■
The Globe Now: しょうゆを世界の食卓に
~ 国際派日本企業キッコーマンの歩み
日本の食文化の中心であるしょうゆが
100ヶ国以上で受け入れられた道のり。
■転送歓迎 H22.03.21■39,617 Copies■3,268,631Views■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/
携帯向けブログ → http://jog-keitai.at.webry.info/
■1.世界に広がる日本食文化のフロント・ランナー
日本食がグローバルに普及しつつある。1年に1回以上日
本食を食べる「日本食人口」は6億人、海外での日本食レス
トランは2万4千店と推定されている。[1,p191]
確かにアメリカでもヨーロッパでも、もちろんアジアでも、
ちょっとした規模の都市なら、かならず日本食レストランが
ある。そして日本人ばかりでなく、現地の人々がビジネス街
でのランチや、家族連れの夕食などで、日本食を手軽に楽し
んでいる光景が見られる。
日本食と言っても、スシ、天ぷら、すき焼きといった定番
メニューばかりではない。牛丼の吉野屋は北京で92店舗、
ロサンゼルスで75店舗など、海外で合計391店舗も展開
している。
こうした日本食の海外普及のフロント・ランナーが、しょ
うゆのトップメーカー、キッコーマンである。世界100ヶ
国以上でしょうゆの販売を行い、世界シェアは実に50%[2]。
平成19(2007)年3月期では、売上の約28%、営業利益の
51%を海外で稼いでいる。[1,p15]
■2.戦前から海外進出
キッコーマンの創業は、大正6(1927)年の野田醤油株式会
社設立とされているが、それ以前から家業としてしょうゆを
醸造していた期間を含めれば、3百年以上前の江戸時代に遡
る。
キッコーマンの社名は、野田醤油株式会社の前身の一つ、
茂木佐平次家の商標「亀甲萬」に由来するが、これは香取神
社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされている。[2]
同社の海外進出の歴史も古い。アメリカに初めて輸出した
のが明治元(1968)年。この年に日本からの移民船が東京から
ハワイに向けて出発したが、しょうゆも同時に樽詰めで運ば
れたのである。
またアジアでの需要が高まるに連れて、生産拠点もソウル
と仁川、満洲の奉天(瀋陽)、北京、シンガポール、クアラ
ルンプール、インドネシアのメダンとシボルガと各地に設け
られていった。
昭和16(1941)年の大東亜戦争勃発により、アメリカ、ヨ
ーロッパ方面への輸出がストップした。在米日系人たちはア
メリカ国籍を持っていた人々も含めて、「敵性外国人」とし
て収容所に強制収容されたが、しょうゆのない生活には耐え
られず、国際赤十字に窮状を訴えた。この訴えを知ったキッ
コーマンは、中立国を経由して、しょうゆを贈った。
強制収容所でのしょうゆの贈呈式の絵が残っている。「祖
國日本より収容所同胞の皆様えの慰問品」と書かれた幕の前
にキッコーマンしょうゆ3樽が積まれ、日系人の男女、子ど
もたちが、座して頭を垂れ、また手を合わせ、涙を拭いてい
る[1,p18]。しょうゆはかくも日本人の食生活に欠かせない
ものであった。慰問品を送ったキッコーマンの「社徳」を感
じさせる一幕である。
敗戦後、キッコーマンの海外資産はすべて諸外国に没収さ
れ、しょうゆの海外進出は中断を余儀なくされた。
■3.アメリカのスーパー店頭での試食プロモーション
しょうゆの輸出が再開されたのは、占領軍から許可がおり
た昭和24(1949)年のことである。昭和32(1957)年には、
サンフランシスコに販売会社を設立した。
アメリカに着目したのは、戦後、アメリカから多くの軍人、
官僚、ジャーナリストなどがやってきて、彼らが自国の料理
にしょうゆを使い始めた事実があったからだ。アメリカ人の
間にもしょうゆに対する潜在需要があり、それを掘り起こせ
ば、アメリカ本土でもしょうゆを売れると考えたのである。
この慧眼と決断、その後の粘り強い実行が、キッコーマンの
海外事業を花開かせることになる。
アメリカの市場開拓でもっとも効果があったのは、現代の
日本でもおなじみの、スーパー店頭での試食だった。コンロ
で肉をしょうゆにつけて焼き、それを小さく切って爪楊枝に
刺して、客に試食して貰う。以後、アメリカでは「テリヤキ」
として一般的になった食べ方である。
後にキッコーマンの海外進出の責任者となり、かつ社長、
会長となる茂木友三郎氏も、コロンビア大学のビジネススク
ール在学中に、夏休みを利用して店頭プロモーションを手伝っ
た。
実際にやって見ると、客の反応は非常に良く、かなりの人
がしょうゆを買ってくれた。東洋人に対する差別意識からか、
白人の巨漢から「ふざけたことをやっているな」と怒鳴られ
たこともあったが、大部分の客は好意的だった。「これはい
ける」という手応えをつかんだ。
数年のうちに、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、ア
トランタに支店が作られ、全米でマーケティング活動が展開
されるようになった。
■4.キッコーマンは北欧の会社?
商品戦略としては「高品質、高価格主義」を掲げた。安い
「化学しょうゆ」を売っていた競合メーカーもあったが、キッ
コーマンは本物の「醸造しょうゆ」にこだわった。中華料理
の煮込みなどでは化学しょうゆでもごまかせるが、肉のテリ
ヤキでは明らかに味が違う。テリヤキを通じて、アメリカ人
は本物の醸造しょうゆの味を覚えていった。
当時は「メイド・イン・ジャパン」というと「安かろう、
悪かろう」というイメージがつきまとっていたが、「高品質、
高価格主義」は、その逆を行くアプローチであった。
テリヤキ以外にも、しょうゆの需要を開拓するために、ホ
ームエコノミスト数名を雇って、しょうゆを使うアメリカ料
理の開発を始めた。ホームエコノミストとは大学の家政学部
を卒業した学士で、ほとんどが女性である。
彼女らが開発したしょうゆ料理を、新聞の家庭欄に掲載し、
料理本としてまとめ、また、小さなレシピブックとしてしょ
うゆ瓶につけた。こうして、多くのアメリカ家庭で、しょう
ゆが調味料として普及するようになっていった。
マーケティングでは、あえて「日本製」を前面に打ち出す
ことをしなかった。あくまで、アメリカ市場では「アメリカ
のブランド」として定着させたかったからである。
そのため、消費者のイメージ調査をすると、なぜかキッコ
ーマンは北欧的なイメージを持たれていた。かつてフィンラ
ンドにケッコーネンという大統領がいたが、発音が似ていた
かららしい。「ワシントン・ポスト」誌の記者が取材に来た
時も、彼はキッコーマンが日本の会社とは知らなかった。
日本に対する知識も関心もない一般の消費者が、高品質の
しょうゆに慣れ親しみ、後にそれが日本企業の商品で、日本
の食文化から来たものだと知ったら、日本人と日本文化に対
して好ましいイメージを持つであろう。それは我が国の国益
につながるのである。
■5.社運を賭けたアメリカ工場建設
しかし、キッコーマンのしょうゆ輸出は、国内で話題にな
りこそすれ、高い輸送コストから慢性的な赤字体質だった。
前述の茂木氏が中心となって、現地生産を進めることとした。
まず昭和43(1968)年に、日本からコンテナでしょうゆを
運び、サンフランシスコでびん詰めを始めた。これで赤字は
阻止できる見込みがつき、さらにその後の需要の伸びから数
年後には、最小規模の工場なら採算に乗ることが分かった。
茂木氏は工場建設の案を策定し、取締役会にかけたが、3
度目にしてようやくゴーサインが出た。当時のキッコーマン
の資本金は36億円で、最小規模と言ってもアメリカ工場建
設にはそれと同規模の投資が要る。まさに社運を賭けた大プ
ロジェクトであった。
工場は、周到な調査検討の結果、全米の物流の中心地であ
るシカゴから2時間ほどの距離にあるウィスコンシン州のウォ
ルワースという小さな町にした。
ところが地元住民が工場建設に対する反対運動を起こした。
農地を工場に転用することに対して、住民たちは長年大切に
してきた自分たちの土地の素晴らしい自然環境が破壊される
のではないかと心配したのだった。
自ら工場建設プロジェクトのコーディネータとなった茂木
氏は、各種の住民の集会に出向いては、スライドを使って建
設案の説明をした。一軒の家に近隣の2、3人に集まっても
らって説明したこともあった。こうした地道な説得が奏効し、
ついに町議会が建設を許可してくれた。
■6.「良き企業市民になる」
この経験から、キッコーマンは海外での工場建設に際して
は、進出した国での「良き企業市民になる」ことを重視した。
15人ほど送り込んだ日本人駐在員はあえて分散して住ま
わせた。当初は困惑した社員もいたが、現地の人は親切で、
ボランティアで英語を教えてくれる人もいた。「一生付き合
えるアメリカ人の友人ができた」という社員もいた。ロータ
リークラブや地域のお祭りなども、積極的に参画した。
野田氏自身も、工場ができて間もない頃、ウィスコンシン
州の経済開発委員に任命された。後には、同州の名誉大使に
任ぜられ、創業地である千葉県との姉妹関係締結を手伝った。
安定した雇用を提供することも「良き企業市民」としての
大事な役割である。従業員には「会社がピンチになっても、
できるだけレイオフはしません。ピンチになった場合は、一
律の賃金カットを実施します。それでも乗り切れない場合は、
残念ながらレイオフします」と宣言した。
幸いにも、その後、賃金カットをするような危機に直面し
たことはないが、「安定雇用」という日本的な考え方を導入
したことが、現地でも評価され、入社希望者が多かった。
■7.各国の食文化、商習慣に適応しながら
アメリカでの成功に続いて、欧州市場に挑戦した。アメリ
カほどしょうゆになじみのないヨーロッパでは、まず鉄板焼
きなどのレストランを各地に開き、客の目の前でしょうゆを
使いながら、宣伝に努めた。また各国の料理学校の先生と契
約し、それぞれの国にあったレシピを開発してもらった。
昭和54(1979)年にヨーロッパでの販売会社を設立。徐々
にしょうゆの販売量が伸びたが、オランダ北部に工場が完成
したのは、それから20年近く後の平成9(1997)年だった。
食に保守的なヨーロッパでは、アメリカよりもはるかに長い
時間がかかったが、息の長い営業活動を着実にやり遂げた事
が奏功した。
オーストラリアでは、バーベキューにしょうゆを使うとい
う調理法が受けて、順調に売上が伸びた。昭和59(1984)年
にはシンガポールに工場を建設し、オーストラリアとアジア
各地にしょうゆを供給し始めた。
平成2(1990)年には、台湾で最大の食品メーカー「統一企
業公司」との合弁事業がスタートした。キッコーマンが生産
を担当し、相手側が販売を担当するという分担で、両社のブ
ランドでしょうゆを販売した。この合弁事業が台湾市場で成
功したので、次に中国でも一緒に事業を展開した。平成14
(2002)年には上海近郊に、合弁でしょうゆ工場を建設した。
このように、同じくしょうゆを販売し、現地生産するといっ
ても、世界各地の食文化や商習慣の違いがあり、それぞれに
うまく適応しながら、各地への進出を進めてきた所に、キッ
コーマンの成功要因があった。
■8.己の「本分」を守ってこそ
この「適応性」について、茂木氏は、著書の中で次のよう
に述べている。[1,p141]
__________
適応性は順応性と違う。順応性というのは、一応適応はす
るが元に戻らなくなってしまうことを指す。たとえば、アメ
リカに住んだらアメリカ人になってしまうということだ。適
応性とは相手が変われば、それに応じて自分も柔軟に適応で
きる能力のことである。アメリカに住めばアメリカの文化に、
ヨーロッパに行けばヨーロッパの文化に適応できる人でなけ
ればならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
適応性ある人は自分自身の「本分」を守り、各国の環境に
合わせて変えても良い所を変えながら適応していくが、順応
性だけの人は自己の「本分」がないので、アメリカに行けば、
すっかりアメリカ人になってしまう。それでは二流のアメリ
カ人となるだけで、アメリカにとっては存在意義がない。
キッコーマンは、宣伝方法やレシピなどは各地の市場に合
わせて変えているが、高品質の醸造しょうゆの供給、雇用の
確保などは、変えてはいけない「本分」として守ってきた。
このキッコーマンの「本分」とは、同社の3百年以上の歴
史を通じて培われた伝統なのだろう。そうした確固とした
「本分」を守ってきたからこそ、世界各地で存在意義を認め
られ、100ヶ国以上で受け入れられたのである。
同社の経営方針に「地球社会にとって存在意義のある会社」
という一項がある。グローバル化の時代にも、相手国に応じ
て変えるべき所は変えながら、己の「本分」を守ってこそ
「存在意義」を認められる。これは日本国民にも日本国全体
についても言えることである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(574) 和食で作ろう、健やかニッポン
ビタミン、ミネラルの豊富な和食が、現代病を克服し、心身の健康を作る
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/jog574.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 茂木友三郎『キッコーマンのグローバル経営─日本の食文化を世界に』★★★
、生産性出版、H19
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4820118250/japanontheg01-22%2
留学で新たに学ぶことも良いのでしょうが、どうか我が国の伝統の良さを伝えることで世界を良くしようというような覚悟で臨まれますならば、フラフラしてツマラナイ連中に捕まることも無いと老婆心ながら思われます。
よって、下記メルマガなど宜しければ大いに活用されること、お勧め申し上げます。
海外在住邦人の方による購読が非常に盛んであるように伺っておりますので、御紹介まで。
■ Japan On the Globe(640) ■ 国際派日本人養成講座 ■
The Globe Now: しょうゆを世界の食卓に
~ 国際派日本企業キッコーマンの歩み
日本の食文化の中心であるしょうゆが
100ヶ国以上で受け入れられた道のり。
■転送歓迎 H22.03.21■39,617 Copies■3,268,631Views■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/
携帯向けブログ → http://jog-keitai.at.webry.info/
■1.世界に広がる日本食文化のフロント・ランナー
日本食がグローバルに普及しつつある。1年に1回以上日
本食を食べる「日本食人口」は6億人、海外での日本食レス
トランは2万4千店と推定されている。[1,p191]
確かにアメリカでもヨーロッパでも、もちろんアジアでも、
ちょっとした規模の都市なら、かならず日本食レストランが
ある。そして日本人ばかりでなく、現地の人々がビジネス街
でのランチや、家族連れの夕食などで、日本食を手軽に楽し
んでいる光景が見られる。
日本食と言っても、スシ、天ぷら、すき焼きといった定番
メニューばかりではない。牛丼の吉野屋は北京で92店舗、
ロサンゼルスで75店舗など、海外で合計391店舗も展開
している。
こうした日本食の海外普及のフロント・ランナーが、しょ
うゆのトップメーカー、キッコーマンである。世界100ヶ
国以上でしょうゆの販売を行い、世界シェアは実に50%[2]。
平成19(2007)年3月期では、売上の約28%、営業利益の
51%を海外で稼いでいる。[1,p15]
■2.戦前から海外進出
キッコーマンの創業は、大正6(1927)年の野田醤油株式会
社設立とされているが、それ以前から家業としてしょうゆを
醸造していた期間を含めれば、3百年以上前の江戸時代に遡
る。
キッコーマンの社名は、野田醤油株式会社の前身の一つ、
茂木佐平次家の商標「亀甲萬」に由来するが、これは香取神
社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされている。[2]
同社の海外進出の歴史も古い。アメリカに初めて輸出した
のが明治元(1968)年。この年に日本からの移民船が東京から
ハワイに向けて出発したが、しょうゆも同時に樽詰めで運ば
れたのである。
またアジアでの需要が高まるに連れて、生産拠点もソウル
と仁川、満洲の奉天(瀋陽)、北京、シンガポール、クアラ
ルンプール、インドネシアのメダンとシボルガと各地に設け
られていった。
昭和16(1941)年の大東亜戦争勃発により、アメリカ、ヨ
ーロッパ方面への輸出がストップした。在米日系人たちはア
メリカ国籍を持っていた人々も含めて、「敵性外国人」とし
て収容所に強制収容されたが、しょうゆのない生活には耐え
られず、国際赤十字に窮状を訴えた。この訴えを知ったキッ
コーマンは、中立国を経由して、しょうゆを贈った。
強制収容所でのしょうゆの贈呈式の絵が残っている。「祖
國日本より収容所同胞の皆様えの慰問品」と書かれた幕の前
にキッコーマンしょうゆ3樽が積まれ、日系人の男女、子ど
もたちが、座して頭を垂れ、また手を合わせ、涙を拭いてい
る[1,p18]。しょうゆはかくも日本人の食生活に欠かせない
ものであった。慰問品を送ったキッコーマンの「社徳」を感
じさせる一幕である。
敗戦後、キッコーマンの海外資産はすべて諸外国に没収さ
れ、しょうゆの海外進出は中断を余儀なくされた。
■3.アメリカのスーパー店頭での試食プロモーション
しょうゆの輸出が再開されたのは、占領軍から許可がおり
た昭和24(1949)年のことである。昭和32(1957)年には、
サンフランシスコに販売会社を設立した。
アメリカに着目したのは、戦後、アメリカから多くの軍人、
官僚、ジャーナリストなどがやってきて、彼らが自国の料理
にしょうゆを使い始めた事実があったからだ。アメリカ人の
間にもしょうゆに対する潜在需要があり、それを掘り起こせ
ば、アメリカ本土でもしょうゆを売れると考えたのである。
この慧眼と決断、その後の粘り強い実行が、キッコーマンの
海外事業を花開かせることになる。
アメリカの市場開拓でもっとも効果があったのは、現代の
日本でもおなじみの、スーパー店頭での試食だった。コンロ
で肉をしょうゆにつけて焼き、それを小さく切って爪楊枝に
刺して、客に試食して貰う。以後、アメリカでは「テリヤキ」
として一般的になった食べ方である。
後にキッコーマンの海外進出の責任者となり、かつ社長、
会長となる茂木友三郎氏も、コロンビア大学のビジネススク
ール在学中に、夏休みを利用して店頭プロモーションを手伝っ
た。
実際にやって見ると、客の反応は非常に良く、かなりの人
がしょうゆを買ってくれた。東洋人に対する差別意識からか、
白人の巨漢から「ふざけたことをやっているな」と怒鳴られ
たこともあったが、大部分の客は好意的だった。「これはい
ける」という手応えをつかんだ。
数年のうちに、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、ア
トランタに支店が作られ、全米でマーケティング活動が展開
されるようになった。
■4.キッコーマンは北欧の会社?
商品戦略としては「高品質、高価格主義」を掲げた。安い
「化学しょうゆ」を売っていた競合メーカーもあったが、キッ
コーマンは本物の「醸造しょうゆ」にこだわった。中華料理
の煮込みなどでは化学しょうゆでもごまかせるが、肉のテリ
ヤキでは明らかに味が違う。テリヤキを通じて、アメリカ人
は本物の醸造しょうゆの味を覚えていった。
当時は「メイド・イン・ジャパン」というと「安かろう、
悪かろう」というイメージがつきまとっていたが、「高品質、
高価格主義」は、その逆を行くアプローチであった。
テリヤキ以外にも、しょうゆの需要を開拓するために、ホ
ームエコノミスト数名を雇って、しょうゆを使うアメリカ料
理の開発を始めた。ホームエコノミストとは大学の家政学部
を卒業した学士で、ほとんどが女性である。
彼女らが開発したしょうゆ料理を、新聞の家庭欄に掲載し、
料理本としてまとめ、また、小さなレシピブックとしてしょ
うゆ瓶につけた。こうして、多くのアメリカ家庭で、しょう
ゆが調味料として普及するようになっていった。
マーケティングでは、あえて「日本製」を前面に打ち出す
ことをしなかった。あくまで、アメリカ市場では「アメリカ
のブランド」として定着させたかったからである。
そのため、消費者のイメージ調査をすると、なぜかキッコ
ーマンは北欧的なイメージを持たれていた。かつてフィンラ
ンドにケッコーネンという大統領がいたが、発音が似ていた
かららしい。「ワシントン・ポスト」誌の記者が取材に来た
時も、彼はキッコーマンが日本の会社とは知らなかった。
日本に対する知識も関心もない一般の消費者が、高品質の
しょうゆに慣れ親しみ、後にそれが日本企業の商品で、日本
の食文化から来たものだと知ったら、日本人と日本文化に対
して好ましいイメージを持つであろう。それは我が国の国益
につながるのである。
■5.社運を賭けたアメリカ工場建設
しかし、キッコーマンのしょうゆ輸出は、国内で話題にな
りこそすれ、高い輸送コストから慢性的な赤字体質だった。
前述の茂木氏が中心となって、現地生産を進めることとした。
まず昭和43(1968)年に、日本からコンテナでしょうゆを
運び、サンフランシスコでびん詰めを始めた。これで赤字は
阻止できる見込みがつき、さらにその後の需要の伸びから数
年後には、最小規模の工場なら採算に乗ることが分かった。
茂木氏は工場建設の案を策定し、取締役会にかけたが、3
度目にしてようやくゴーサインが出た。当時のキッコーマン
の資本金は36億円で、最小規模と言ってもアメリカ工場建
設にはそれと同規模の投資が要る。まさに社運を賭けた大プ
ロジェクトであった。
工場は、周到な調査検討の結果、全米の物流の中心地であ
るシカゴから2時間ほどの距離にあるウィスコンシン州のウォ
ルワースという小さな町にした。
ところが地元住民が工場建設に対する反対運動を起こした。
農地を工場に転用することに対して、住民たちは長年大切に
してきた自分たちの土地の素晴らしい自然環境が破壊される
のではないかと心配したのだった。
自ら工場建設プロジェクトのコーディネータとなった茂木
氏は、各種の住民の集会に出向いては、スライドを使って建
設案の説明をした。一軒の家に近隣の2、3人に集まっても
らって説明したこともあった。こうした地道な説得が奏効し、
ついに町議会が建設を許可してくれた。
■6.「良き企業市民になる」
この経験から、キッコーマンは海外での工場建設に際して
は、進出した国での「良き企業市民になる」ことを重視した。
15人ほど送り込んだ日本人駐在員はあえて分散して住ま
わせた。当初は困惑した社員もいたが、現地の人は親切で、
ボランティアで英語を教えてくれる人もいた。「一生付き合
えるアメリカ人の友人ができた」という社員もいた。ロータ
リークラブや地域のお祭りなども、積極的に参画した。
野田氏自身も、工場ができて間もない頃、ウィスコンシン
州の経済開発委員に任命された。後には、同州の名誉大使に
任ぜられ、創業地である千葉県との姉妹関係締結を手伝った。
安定した雇用を提供することも「良き企業市民」としての
大事な役割である。従業員には「会社がピンチになっても、
できるだけレイオフはしません。ピンチになった場合は、一
律の賃金カットを実施します。それでも乗り切れない場合は、
残念ながらレイオフします」と宣言した。
幸いにも、その後、賃金カットをするような危機に直面し
たことはないが、「安定雇用」という日本的な考え方を導入
したことが、現地でも評価され、入社希望者が多かった。
■7.各国の食文化、商習慣に適応しながら
アメリカでの成功に続いて、欧州市場に挑戦した。アメリ
カほどしょうゆになじみのないヨーロッパでは、まず鉄板焼
きなどのレストランを各地に開き、客の目の前でしょうゆを
使いながら、宣伝に努めた。また各国の料理学校の先生と契
約し、それぞれの国にあったレシピを開発してもらった。
昭和54(1979)年にヨーロッパでの販売会社を設立。徐々
にしょうゆの販売量が伸びたが、オランダ北部に工場が完成
したのは、それから20年近く後の平成9(1997)年だった。
食に保守的なヨーロッパでは、アメリカよりもはるかに長い
時間がかかったが、息の長い営業活動を着実にやり遂げた事
が奏功した。
オーストラリアでは、バーベキューにしょうゆを使うとい
う調理法が受けて、順調に売上が伸びた。昭和59(1984)年
にはシンガポールに工場を建設し、オーストラリアとアジア
各地にしょうゆを供給し始めた。
平成2(1990)年には、台湾で最大の食品メーカー「統一企
業公司」との合弁事業がスタートした。キッコーマンが生産
を担当し、相手側が販売を担当するという分担で、両社のブ
ランドでしょうゆを販売した。この合弁事業が台湾市場で成
功したので、次に中国でも一緒に事業を展開した。平成14
(2002)年には上海近郊に、合弁でしょうゆ工場を建設した。
このように、同じくしょうゆを販売し、現地生産するといっ
ても、世界各地の食文化や商習慣の違いがあり、それぞれに
うまく適応しながら、各地への進出を進めてきた所に、キッ
コーマンの成功要因があった。
■8.己の「本分」を守ってこそ
この「適応性」について、茂木氏は、著書の中で次のよう
に述べている。[1,p141]
__________
適応性は順応性と違う。順応性というのは、一応適応はす
るが元に戻らなくなってしまうことを指す。たとえば、アメ
リカに住んだらアメリカ人になってしまうということだ。適
応性とは相手が変われば、それに応じて自分も柔軟に適応で
きる能力のことである。アメリカに住めばアメリカの文化に、
ヨーロッパに行けばヨーロッパの文化に適応できる人でなけ
ればならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
適応性ある人は自分自身の「本分」を守り、各国の環境に
合わせて変えても良い所を変えながら適応していくが、順応
性だけの人は自己の「本分」がないので、アメリカに行けば、
すっかりアメリカ人になってしまう。それでは二流のアメリ
カ人となるだけで、アメリカにとっては存在意義がない。
キッコーマンは、宣伝方法やレシピなどは各地の市場に合
わせて変えているが、高品質の醸造しょうゆの供給、雇用の
確保などは、変えてはいけない「本分」として守ってきた。
このキッコーマンの「本分」とは、同社の3百年以上の歴
史を通じて培われた伝統なのだろう。そうした確固とした
「本分」を守ってきたからこそ、世界各地で存在意義を認め
られ、100ヶ国以上で受け入れられたのである。
同社の経営方針に「地球社会にとって存在意義のある会社」
という一項がある。グローバル化の時代にも、相手国に応じ
て変えるべき所は変えながら、己の「本分」を守ってこそ
「存在意義」を認められる。これは日本国民にも日本国全体
についても言えることである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(574) 和食で作ろう、健やかニッポン
ビタミン、ミネラルの豊富な和食が、現代病を克服し、心身の健康を作る
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/jog574.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 茂木友三郎『キッコーマンのグローバル経営─日本の食文化を世界に』★★★
、生産性出版、H19
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4820118250/japanontheg01-22%2
Posted by 結衣は朝、十六茶から at 2010年03月23日 22:49
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Posted by よぎぶぅ♪ at 2010年03月27日 23:49